伝統と進化

陶芸

日本には数多の伝統文化が有ります。世界的に見て、こんな国は他には存在しません。

歌舞伎、能、狂言、落語、日本画、書道、弓道、柔道、華道、俳句、琴、着物、漆器、焼き物、盆栽、日本酒、と枚挙にいとまが有りません。

それぞれの家元に産まれた惣領(長男)の方々は、幾百年の間綿々と受け継がれてきた所作を、物心ついた幼少より家元の愛情溢れる型に填め込まれ、同じ年頃の子供たちが遊んでいる中、一人英才教育を受けるのです。
そして、中学三年生にして、気付けばもう十年もこれをやっている、と言う辺りで自分を振り返ることになるのです。

「自分の意見も聞かないで、無理矢理こんな事をを押しつけて」一度はそんなことが頭を過ぎるでしょう。しかし「この、親の愛情溢れる型に無理矢理子を填める」と言う行為自体も幾百年受け継がれてきた家元の伝統行為なのです。

その伝統文化を一身に「引き受ける」かただ「やる」かの選択もまた、家元の惣領に産まれたことへの喜びになるか、はたまた諦念するかで「天と地」ほどの差異が生まれるのです。伝統はそれを引き継ぐままで終わっては、進歩、進化が有りません。

「いや、いや、あの人は親父と同じくらいになったよ。大したものだよ」これで、確かに伝統を受け継いでおり、この時点でもう立派に成長しているのです。本人、家筋の方々も納得してお家も安泰です。しかし、ここで終わってしまって良いのでしょうか? これでは、襷を次の世代に渡しただけの行為で終わってしまうのです。

「あの家は数百年続いているんだよ」の数百年の中に埋もれて消えてしまうのです。それでは、埋もれない為に何をやらないとならないのか?

それは「伝統を踏まえた進化」に他なりません。伝統的なものをお客は時間と金を掛けて「観」に来てくれます。来る途中に「大体の出来の予想」もしています。惣領の方が上手く出来ればお客は誉めてくれます。
「いやー、良かったよ。期待通りだ」大抵の惣領の方はこれで満足します。「やってていて良かった」と。

しかし、これこそが只の「襷」で終わってしまう経過なのです。本人がそれで満足されたのなら、自分は「今迄よく頑張ったね」と言葉を掛けるでしょう。

どんな伝統文化に於いても、突出するためのもの、それこそが「伝統文化+サムシング・ニュー」なのです。一歩で良いのです。二歩も三歩もでは行き過ぎです。なにしろこれは数百年間受け継がれて来た「伝統文化」なのですから。

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