陶磁器の伝統文化
(代々続く窯元)ですが、粘土を用途の形に成形して乾燥、素焼き、釉掛け、焼成と言った段階的なものはどの焼き物の家元でも同じです。では、どこが伝統なのでしょうか。
それは、使用する粘土の成分と成形の形と釉薬の成分、それに焼成方法が家元によって違うのです。
粘土はその土地の山や川、或いは田圃から出土した、所謂地元の土が使用されます。成形は薄物や厚物等があり、その粘土の耐火度によって変わります。
大皿に高台が付いていると、耐火度の低い粘土では、焼成中に皿の縁が垂れて変形してしまうので、好ましくありません。この辺りはベタ底にしてしまうとか、やはり昔からの伝統によって既に決まっています。
釉薬は、現在のように成分の分析なんてやれませんから、鴨川石や鬼板を使うと茶色から黒くなるとか、灰を混ぜると薬が良く溶けるとか、長石を使うと白くなるとか、そのような受け継がれ方をしていましたが全て極秘として扱われていました。
地球上で一番多い鉱物の「鉄」を酸化焼成(酸素供給のまま焼成して、薪が非常に良く燃える状態)すると茶色から黒になりますし、還元焼成(燃えている薪の酸素供給を減らす)と薪は空気中の酸欠状態が苦しくて、陶器についた釉薬から酸素を持って行ってしまいます(還元状態)。
そしてその還元された焼き物は、磨き上げた「刃」のごとく「薄青」い姿を見せてくれます。
二番目に多い鉱物の「銅」を酸化焼成しますと、緑青(りょくしょう)青さび色になりますし、酸化焼成しますと、元の赤っぽい色になります。青緑色の焼き物は「織部焼き」と呼ばれていますが、最近では「緑釉」を使ったものは全て「織部」と呼んでいるようです。
器全体が青緑色のものは、総織部と言われていまし、又、黒織部と言うものもあります。岐阜県の美濃地方で生産された一般的な織部焼きは、その肌色の部分と鬼板で描かれた模様と緑釉とのハーモニーが全て揃って「織部焼き」と言われました。
一般的な「織部焼き」は、千利休を疎ましく思い切腹させた豊臣秀吉から、新しく茶道を受け継いだ古田織部が、利休離れを命令されて陶工に作らせた焼き物です。古田織部は今で言うところのプロデューサーでありデザイナーでもありました。この古田織部は後年徳川家康に切腹を命じられます。
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